インタビューシリーズ~パパ・タラフマラの作り方~
第2回「カンパニーの成長と法人化~
アングラ集団からアートカンパニーへ」
ゲスト:吉井省也
(現・舞台芸術財団演劇人会議プロデューサー/在籍期間:1984年~2000年)
聞き手:山内祥子(パパ・タラフマラ制作/在籍期間:2008年~)

演出家よりも責任の範囲が広いから制作に志願した

山内:吉井さんがパパ・タラフマラに参加された経緯を教えていただけますか?チラシを見る限りでは『カラーズ・ダンス』(1984年12月)くらいから名前が登場しているようですが。
吉井:大学入学と同時に入ったので84年の4月。作品としては『黒のソーラーゲーム』(1984年6月)からだけど、一番下っ端だったし、入った時にはすでにチラシが出来上がっていたから名前は出ていません。
山内:なるほど。
吉井:この年は4月(『1984日向で眠れ』)、6月と連続で公演をやっているのね。凄く忙しい時だったので、あんまり相手にされなかった(笑)。「やりたいならやれば?」みたいな。
山内:大学で勧誘みたいなことをしていたんですか?
吉井:まだやっていましたね。カンパニーとして片足だけ大学に置いておいていたんだよね。劇団員のほとんどはまだ学生だったけれども、小池さんはもう卒業していて、他の劇研サークルとは違ってすでに完全なプロ志向だった。けど、大学に片足突っ込んでおくと、いろいろ便利なわけだよね、稽古場所の確保とか。そういうことですね。
山内:入団した理由は?
吉井:はっきり憶えてないんですが、寺山(修司)さんが死んだ年じゃなかったっけ、たしか。違う?
山内:前年に亡くなってます。
吉井:前年か。なんかそんな感じだった、気持ち的に。
山内:じゃあ、寺山さんの作品も結構ご覧になってたんですか?
吉井:いやいや、そんなことないですね。僕は、遅れて来た青年ですよ。寺山さんには間に合っていない。寺山さんは、もちろん舞台の人だけれども、地方で舞台は観られないので、むしろ詩人や作家として有名だったから、田舎者でも名前はもちろん知っているわけですよ。亡くなったときも大きく報道されたし、だからちょっとこう、そういう風潮があった時だったんじゃないかと思いますよ。

山内:小池さんから、「入ってすぐに『制作やりたい』って吉井の方から言ってきたんだよ」みたいなことを聞いたことがあるんですけれども。
吉井:「舞台監督か制作がやりたい」って言って、珍しがられたよね(笑)。その時は、制作や舞台監督の仕事をちゃんと分かっているわけでも、自分の頭の中できちっと整理できていたわけではないんだけどね。ただ、19歳の若造が考えることだから適当だし、今から思えば後付け的なところもあるんだけど、演出家っていうのは客席に座って、お客さんの見える範囲には責任があるけど、バックステージやロビーのことまで責任があるか、あるいは見えるのかっていうと、なかなかそうもいかないし、またそういうことをスタッフも求めはしない。そうするとね、舞台監督の方が演出より責任の範囲がちょっと広いよなって思ったんです。舞台もバックステージも両方責任が出てくる。制作もそうでしょ?むしろ客席も含めた全てのことに責任がある。なんとなくそのイメージがあって、「どうせやるならできるだけ色んなものを見てやろう」っていうのがあったんです。それで、そういう言い方したんですよね、生意気に。
山内:そういう考えになったのはどうしてですか?
吉井:ハッキリ覚えてないけど、こっちは学生だし、自信もなかったから、どっぷり浸かるんじゃなくて、「いろいろ見て合わなかったらフェードアウトすればいいや」っていうようなことだったんじゃないかな。だから、あんまり熱心な奴じゃないですよね。「役者やりたい!」とか、「演出やらしてくれ!」っていう方が熱い。だからホントは僕みたいなのは面接で落ちていてもおかしくないんだけど、「なんか変な奴だから雑用やらせればいいや」みたいに思われたんじゃないですかね。
山内:吉井さんが入られた頃って、劇団員は何人ぐらいいらっしゃったんですか?
吉井:いろんな人が出入りしていたからなあ…。一橋と、武蔵美と、東経大、それから日芸っていう“カタマリ”はなんとなくあったけど、どこまでが劇団員で、どこからが劇団員じゃないかっていうのはサッパリ分からなかった。まあ、今もそうだけど、作品主体の集団だったからね。
「タラフマラ劇場」から「パパ・タラフマラ」へ
山内:1987年に「タラフマラ劇場」から「パパ・タラフマラ」に名前が変わるじゃないですか。これはどういう経緯だったんですか?
吉井:「タラフマラ」ってアルトー*1でしょ。それに「劇場」ってつけると、どうしてもアンダーグラウンドなイメージになるんですよね。「タラフマラ」っていう語感からして暗い感じ……。いや、アルトーのタラフマラだって知ってる人は知ってるんですが、そういう人ってそもそも相当マニアックなわけで。結成時はそれでよかったかもしれないけど、当時のスタイルとはズレてきてたんですよね。それまではアンダーグラウンドなイメージだったんだけど、『海辺のピクニック』(1985年)がだいぶポップで、ジャズをいっぱい使った賑やかな作品で、このときのチラシのコピーと作品の中身がもうすでに合ってないわけです。それで、次の『モンク』(1986年)をやる時にまずロゴを変えてるんです。ちょっとこう、セゾンっぽく。で、次の年にさらに変えるんですね。
山内:「パパ」をつけたと。
吉井:うん、これ、たしか劇団員全員の投票で決めた。まず始めに「ガラッと変えちゃうとわけわかんなくなっちゃうから、タラフマラは残そう」と。それで全員で話し合って絞っていって、最後にこれ。
山内:民主主義で決まったんですか!え~凄い!
吉井:もちろん、最終的に小池さんが気に入らなければ採用されないけれどね。
山内:演目も話し合いながら決めていたんですか?それとも小池さんの一存で?
吉井:それは小池さんです。それがなかったらおかしなことになるんで。中身を民主的に決めるなんてことはないです。今でもそうかもしれないけど、まず最初に小池さんからバーっとなんか文章が配られる。
山内:そうですね。「こんなの書いてみました」って突然送られてくる。
吉井:そうそう。台本じゃないんですけど、「次こういうのはどうだ」っていうプロットのようなものがね。ただ、タイトルに関しては、みんなで考えたりしたことはありましたね。小池さんも意外とタイトルに関しては自信がないみたいで、「どう思う?」ってよく聞かれました。今でもそうかもしれない。
山内:今でもそうですね。「どんなタイトルだったら売れるか、俺分かんねーんだよ」って言ってます(笑)。
吉井:それね、作家には分からないと思うよ。だってタイトルっていうのは、作品を要約することにつながるからね。「要約なんて出来ない、この作品を一言でなんか言えない。」っていう気持ちは本来作者にはあるのかもしれない。
制作に専念するようになった理由
山内:当初は吉井さんもパフォーマーとして舞台に立たれていたんですよね?
吉井: そうですね。85年から4~5年はパフォーマーを兼ねてるから、自分の中で制作専任だと自覚的にやったのは『STONE AGE』(1991年)からですかね。
山内:じゃあ、それまでは吉井さんが中心というよりは、他の方と一緒にやっていた?
吉井:もちろん。五十嵐祥子さんが専任で制作をやっていました。
山内:90年に株式会社サイ(パパ・タラフマラの制作会社)を立ち上げて吉井さんが社長に就任してますけど、制作に専念しようとお考えになったのはそれが引き金ですか?
吉井:もともと制作がやりたかったのでパフォーマーへの執着はなかった。それに、いろんな新人が入って来て、作品の質もどんどん舞踊寄りになっていったこともあったから、僕みたいな素人が出る幕はだんだんなくなっていったんだよね。
山内:もともと、それ程ダンス的要素が多い作品をやっていたわけじゃないところにダンサーが入ってくるようになったのはどういう経緯だったんですか?
吉井:それは、コンテンポラリーダンスをやっていた人たちが、タラフマラというものに対して、だんだんシンパシーみたいなものを持ち始めた時期でもあるし、小池さん自身も、「そろそろそういう身体を入れていかないと」って考えていたからね。それまでのタラフマラ的身体というのは「モノ」と「ヒト」との関係をどう描くかっていう身体なんですよね。だから、踊りそのもの、肉体だけで見せるっていう感覚はなくて、オブジェと肉体がどう絡んでいるかっていう見せ方なんですよね。つまり、風景を見せていたんです。それが、「身体単独でもきちっと見せられるものを作りたい」ってことに変わってきた。
山内:『STONE AGE』ぐらいから、パフォーマーが一気に増えてますね。
吉井:オブジェも凄いんだけどね、この作品。絶対再演できないよ。だけど、身体だけで見せるシーンも凄くあるんだよね。あと、言葉もどんどんそぎ落とされた。『STONE AGE』の頃はもうほとんどなかったんじゃないかな、言葉が。
法人化とP.A.I.の設立


山内:カンパニーを法人化したのは、海外進出への準備という意味合いが大きかったんでしょうか?
吉井:どうかな。当時、タラフマラの作品要素である音楽だとか、映像だとか、舞台上に出ているオブジェだとか、そういうものが副産物的に商品化する動きがすごくあったんで、法人になった方が便利だねっていう感じだったんじゃないかなあ。
山内:「株式会社」っていう形を取ったのは、何か理由があるんですか?「NPO」とか「有限会社」という選択肢もあったと思うんですけど。
吉井:NPOなんてないもん、その当時。それとたしか資本金がちょっとあったんだよ。
山内:その後、いろんな展開をしていきますよね。例えば、P.A.I. *2の設立とかワークショップ事業とか。当時はまだワークショップ事業なんて世の中に浸透していなかったし、アーティスト育成機関もほとんどなかったから、P.A.I.を立ち上げた時は凄い数の応募者が来たって聞いてます。
吉井:新劇の養成所はもともとあったけど、コンテンポラリーダンスの研究所はなかったのかな。みんなそんなことやってる余力がなかったんでしょうね。人に教えてる暇なんかないっていう感じだったと思う。
山内:だけど、あえて作った?
吉井:あえて作りましたね。
山内:どういう意図があって?
吉井:小川摩利子さんがボイスワークショップをやってたり、白井さん*3とかも教えてたりしてたから、そういうものを統合して、ジャンル横断的な人材育成をやる場を作ったらいいんじゃないかっていう考えからですね。
山内:それでこの頃ぐらいから新人のパフォーマーがどんどん入ってくるようになった?
吉井:いや、P.A.I.は、タラフマラの新人を育成する場とは位置づけてないです。それは、お見合いだから。2年間、最初は1年単位だったかな、やって、その後でタラフマラが欲しいと思う人材かどうか、逆にパフォーマーにとってもタラフマラでやっていきたいと思う気持ちがあるのかどうかってことが大事だから。募集の段階から、「将来のタラフマラのパフォーマーを目指し」なんて言い方は全くしてないです。ただ、いざやってみると場所も大変だし、受講料をできるだけ安くしたいから、採算取るのに苦労したんだよなあ。
山内:いまだにこの時の受講料を守っているっていう…。
吉井:あ、そうなんだ!
集団を“鍛える” ためには負荷が必要

山内:この時期の観客動員はどれぐらいですか?
吉井:『船を見る』(1997年)の時がピークじゃないですか?5000人くらいだったと思います。この頃は新作で、3000人くらいかなぁ。『青』(1994年)とか。あ、これってグローブ座(当時パナソニック・グローブ座)で3年間やるっていうプロジェクトの一つですね。
山内:そうですね。
吉井:高萩さん*4がいらした時代のグローブ座です。
山内:これってグローブ座とはどういう契約だったんですか?
吉井:たしか明確な契約ではなかったけれども、この時期、海外に持っていけるような新作をどこで作るかっていうのが大問題だったんですね。新作を作るのが一番大変なので。外国で作るのか、日本で作るのか、日本で作るならどの劇場で作るのか。劇場を転々とするのも疲れちゃうし、一つの劇場でじっくり腰を据えて、フランチャイズとまではいかなくても、せめて「3年間はここでやる」って決めて、スタッフ全員にそれを浸透させながら作りたいって思ってた。それでいろいろと交渉してたら、高萩さんが「3年間やってみる?」って言ってくれたんだったと思う。だから、『ブッシュ オブ ゴースツ』(1992年)と『青』と『城~マクベス』(1995年)という大作3つは、グローブ座で生まれたんですけど、最初の思惑と違って大作になり過ぎちゃってですね(笑)、『ブッシュ~』は辛うじて海外に持って行きましたけど、他の2つは…。
山内:『青』は日本での再演はありますけど、海外ではやってないです。
吉井:『城~マクベス』なんて絶対できないよね。
山内:絶対無理ですね(笑)。
吉井:こっち(制作側)の思いと、小池さんの力の入り方がずれちゃったっていう(笑)。まあ、そういうこともありましたね。
山内:なるほど。
吉井:だけどね、あんまりお金のことばかり言って、演出家が「あれもできないのか」「これもできないのか」って思うことが続くのもよくないからね。ガス抜きじゃないけど、やりたいことを思う存分やってもらわないと。そうしないと分かってもらえないこともあるからね。「それじゃ海外に持って行けませんよ」とか、「そんなんじゃ出来ないですよ」とか、そんなことばっかり言ってたら、何のために作品、新作を作るのかってことになってきちゃうでしょ?
山内:以前、吉井さんから伺った話でとても印象的だったのが、「演出家がやりたいように100%出来るのがベストだと思っているから、そこにどうやったら近づけるかっていうのを考えなきゃダメだ」っていう言葉なんですよね。
吉井:そうしないと制作って楽な仕事になっちゃうからね。自分の力量の範囲内で「予算100万だから100万下さい」なんてさ、そりゃ楽でしょ?お金の問題だけじゃなくて、すべてのレベルを上げていかないとっていうのがあるからね。お金かければいい舞台作れるって言うんなら作ってみたら?って感じもあるし、集団を鍛えるっていうことも大事。タラフマラって基本的にカンパニー主義なので。僕は当時プロデュース公演って長い目で見たらあまりいいことじゃない、カンパニーの方がいいと考えていた。だから、「集団をどう鍛えていくのか」っていう課題については、集団に何らかの負荷を掛けることがどうしても必要になってくる。公演日数を増やしたりするのはもちろん、舞台上でどういう演出をするか、俳優やパフォーマーをどう鍛えていくかっていうことも制作が関与できる分野じゃないですか。タラフマラは美術の要素が凄く大きかったから、当然、美術スタッフも育てなければいけない。集団としてどう上げていくのかっていうことも含めて予算を考えてたところはあると思いますけどね。

山内:きっとそれがP.A.I.開設とリンクしてくるんですよね。「集団を鍛える」っていうことが前提にあったから、個人が出来ることを最初っから絞り込むんじゃなくて、可能性を広げていくような人材育成のやり方に辿り着いた。今時の若い人で「集団を鍛える」っていう発想に至る人って、なかなかいないんじゃないかと思うんですけれども。
吉井:僕らはそうじゃないとやっていけなかったんですよ、作品の質の点で。集団のスタイルで作品が決まるっていうこともあるかもしれないけれども、タラフマラの場合は、この作品を実現するためには集団をどうしていくかっていうことの方が大事だったんですよ。だって、「こういう集団だからここまでの作品しかできないよね」っていうんじゃ、困っちゃうんだよね。つまり、小池さんの作る作品が、タラフマラの集団性を決めていく。
山内:『青』の時なんかは、全員のダンサー化を図ろうってことで、泊り込みで半年ぐらいガンガン稽古したそうですね。
吉井:やったね。鈴木(美緒)さんあたりが伸びてきたのがその頃だね。
山内:当時のスタッフに聞くと、急激に踊れる人たちだらけになって「あー凄く変わった!」って、びっくりしたって言われます(笑)。
吉井:まあそうでしょうね。80年代後半ぐらいから、タラフマラの魅力はあの独特のオブジェだっていう反応がかなりあったんですよ。「空間が心地いい」とか、「動く絵画を見ているようだ」とか。だから、その当時は「美術手帖」だとか美術雑誌にいっぱい載ったんです。今でも小池さんは当時の批評とかに不満を持っているみたいだけれど、美術分野の人の方が素直に観てくれたんですよ。演劇とかダンスの人たちには、「これはダンスじゃない」とか「これは演劇じゃない」っていう、非常に狭い見方が多かった。その点で美術雑誌っていうのは、「西のダムタイプ*5、東のタラフマラ」みたいな安易な置き方ではあったけど、「美術に人間が入っていく」というような文脈で捉えてくれた。ま、小池さんはそれにもあんまり満足はしていなかったけどね(笑)。小池さんにとっては「身体」とか「人間」が中心だから。「モノとヒトとの関わり合い」って言ったって、「それだけを描いている訳じゃない」っていうような思いが、当然彼の中にはあったと思う。松島誠が作るオブジェにしたって非常にクオリティが高い。それに対して身体をどう拮抗させていくかっていうのは、一時期のタラフマラの課題でもあった。でも、身体の方はモノと違ってそう簡単にいかない。そもそも、小池さんの中では、「踊れるダンサーをいっぱい連れて来てやろう」っていう発想は一切ないから。
山内:ないんですね。
吉井:そういうダンスを求めてるわけじゃないから。だから内部で、とにかく「稽古すればできるように」ってやったわけ。時間が掛かる作業でしたね。パフォーマーに負荷は掛かるけれどもね。でもやらなきゃいけない。
山内:「鍛える」ってことが必要だった。だけど、今回の「解散」っていう選択は、これとは逆のアプローチですよね?
吉井:やり尽くしたとは思わないけどね。そこは僕には分からない。ちゃんと聞いてないんだ、何で解散するのかハッキリとはね。ただ、3.11は大きかったんじゃないかね。
山内:それもありますけど、ただ、ずーっとこう蓄積してきた集団であることの重たさが、もちろんいい意味での「重厚感」にも繋がってるんだけど、「重たさ」ばっかりが感じ取られるような状況が、わりとここ5年くらい続いて来ていて、で、やっぱりそれって小池さんはともかくとして、メンバーにかなりの負荷が掛かるじゃないですか。それに対して、小池さんも心を痛めている部分があって、「一回軽くしよう」ってなったんだと思います。
吉井:いつでも「次へ、次へ」っていう人だからね。一緒にやっていくにはエネルギーが要りますよ。
山内:そうですね。
さまざまな事業展開と舞台公演の密接な関係



山内:事業展開としては、ワークショップやP.A.I.の他に空間演出デザイン系の事業もされていたそうですね。
吉井:やりましたね。企業イベントや空間デザインね。オブジェ作るだけじゃなくて、スタッフの衣装まで全部任されたね。
山内:そうなんですか。これも、それこそただの劇団じゃなくて、美術スタッフもいるアートユニットだからこそできたことですよね。
吉井:そうですね。美術部が確固たるものとしてあったからね。あと、CMもだいぶ出たね。
山内:それも聞きました。マネジメント業務もやってらしたって。
吉井:パフォーマーの出演もだけど、「作品そのまま使う」っていうのもやったね。
山内:そのまま?
吉井:小川さんだけ出演するとか、そういうのじゃなくて、タラフマラの舞台作品そのものをCMで使うっていうこと。ディレクターもこっちで決めさせてもらって。だから、タラフマラの映像を全面的にやっていた映像作家の佐々木さんにお願いできた。
山内:映像、残ってるかな?
吉井:それから、三枝(成彰)さんのコンサートのデザインなんかもやったね。これはセットデザインと、パフォーマー出演も合わせて。それから、美術展のプロデュースとか。
山内:なるほど。結構、広告代理店みたいな仕事を受けていたんですね。あと、「パパカフェ」っていうのもやってましたよね?これもそういった事業の一環ですか?
吉井:いや、これはね、その頃ダムタイプが京都で週末だけカフェをやってたのね。カフェと言っても、商業目的じゃなくていろんな人が集まって交流する場のような。「インフォーマル・ギャザリング」とかいってさ、当時流行ってたんけど。
山内:サロン的な?
吉井:そうそう。そういったものを、やってたんだよね。たしか京都大学から委託されて。で、そこに一度行った時に、「あ、いいなあ。こんなのやれたらいいなあ」って思ったのがきっかけだったと思います。大変なんですけどね、実際にやってみると。「第3土曜日だけ」とか日にちを決めてスタジオを「カフェ」として開放しました。アーティスト、ダンサー、俳優、プロデューサーなど、いろんな人たちが集まってまさにサロン的な感じでしたね。
山内:明和電機さんや山下洋輔さんも来たそうですね。
吉井:そうそう、イベントもやったんだ。
山内:いやー、ホントにもういろいろなことをやってたんですね。
吉井:舞台公演のことに関してはだいたい記憶に残っていたんだけど、それ以外のことはあまり覚えてないもんだね。
山内:でも、こうやっていろんなことをやってきたことが、「パパ・タラフマラ」を知ってもらうことに繋がって、大きな公演を成功させることができたんだろうなあと思います。
吉井:でも、観客動員にはあまり繋がらなかったと思うけどね(笑)。やっぱり、タラフマラって、誰が観ても楽しめるものじゃない気がするからね。だから、拡大していくよりもピンポイントで一人ずつ増やしていくしかないんですよね。「ダムタイプは文科系、タラフマラは体育会系ですよね」ってある編集者に言われたことがあるんだけど、傍から見ると凄くこう、とんがったことをストイックにやってるイメージがあって、とっつきにくい集団だったと思うんですよ。で、それを少しオープンにする作用が「パパカフェ」にあったね。一つの回路になったとは思う。「なんかちょっと飲み会みたいなのあるみたいだよ」って来てみれば、そこにはパフォーマーもいるし、美術家もいるし、音楽家もいるし、いろんな人がいる。そうするとね、全体的なタラフマラのイメージから外れて、例えばそこで音楽家同士が親しくなる。あるいは美術家同士が親しくなって突破口が生まれる。タラフマラの全体像っていうのは、漠然とした「とんがった集団」でしかないんだけど、それは当然舞台芸術なわけだからあらゆる要素が全部寄り集まって出来てるわけですよ。こういう所に来るとその要素ひとつひとつが何なのか、ということがちょっと分かるわけ。「あ、こういう人が音楽やってたんだ」「こういう人が美術作ってたんだ」って、顔と表現が一致していくような。その結果、お客さんが大幅に増えることはないかもしれないけど、タラフマラの集団を取り巻く一重の輪はできたかもしれない。それが、作品の中身に影響していったことはありますね。
構成・文/郡山幹生
写真:大澤歩
注釈
*1 アントナン・アルトー(1896-1948)。フランスの俳優・詩人・小説家・演劇家。劇団名の「タラフマラ」とは、アルトーの著書「タラフマラ」に登場するメキシコの秘境が語源。
*2 「パパ・タラフマラ舞台芸術研究所」の略称。1995年設立。小池博史を所長とする舞台表現者養成期間。
*3 白井さち子。パパ・タラフマラ所属のパフォーマー。1989年入団。フリーのダンサーとしても活動。
*4 高萩宏。現・東京芸術劇場副館長。東京大学在学中の1976年、野田秀樹らとともに劇団夢の遊眠社を旗揚げ。著書に「僕と演劇と夢の遊眠社」(日本経済新聞出版社刊)。
*5 1984年に京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティスト集団。絵画・音楽・演劇・建築・映像・インスタレーション等、あらゆるジャンルをボーダレスに横断する製作スタイルで海外でも高い評価を得ている。
■山内祥子(やまうち・しょうこ)■
1985年生まれ。多摩美術大学彫刻学科諸材料専攻卒業。在学中はパパ・タラフマラの美術ボランティアとして「シンデレラ」「東京⇔ブエノスアイレス書簡」等の美術・小道具作成を担当。フェスティバル実行委員会の事務局長。
【パパ・タラフマラ ファイナルフェスティバル】
『SHIP IN A VIEW』
■作・演出・振付:小池博史
■出演:小川摩利子/松島誠/白井さち子/関口満紀枝/あらた真生/池野拓哉/菊地理恵/橋本礼/南波冴/荒木亜矢子/縫原弘子/開桂子/ヤン・ツィ・クック ※菊地理恵/荒木亜矢子はダブルキャスト
■日程:2012/1/27(金)~29(日)
■会場:シアター1010
■チケット料金:8,700円 他
■上演時間:約90分
『パパ・タラフマラの白雪姫』
■作・演出・振付:小池博史
■出演:あらた真生/白井さち子/菊地理恵/橋本礼/南波冴/荒木亜矢子/石原夏実/小谷野哲郎/アセップ・ヘンドラジャッド
■日程:2012/3/29(木)~31(土)
■会場:北沢タウンホール
■チケット料金:4,500円 他
■上演時間:約75分
■お問い合わせ先:パパ・タラフマラ ファイナルフェスティバル実行委員会事務局 03-3385-2066
■公式サイト:http://pappa-tara.com/fes/
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